銀座のはなし

きらいなチョコレートがいっぱい詰まったクリスマスツリーを
私が好きそうだからって、
買ってきてくれたんだ。
一年。

銀座にごはんを食べに行って
幸せだなーって。
一年。

一年経ったいま、
私は別の人に会いに銀座に行くんだ。
去年は予想もしてなかったのにね。
来年も再来年もずっと、よろしくね、って言ったのにね。


大丈夫になるんだよ、私も

過ごすはなし

夢を追う素振りを見せるひとと
傷ついてるのに一生懸命笑ってるひとと
堅実で穏やかだけど欠落してるひとと
やんちゃな大人と
可愛いこども


会社にきちんと行って、
帰ってきて、最低限の家事をする。
誤魔化すために考えないように、ひとと会う。

そういう忙しない当たり前の日々をきちんと送るべく、
今は意図的に思考停止する。
考えない間にいつの間にか幸せになれたり
忘れられたりしないかな。

体をだいじにしなよって言葉の
ほんとの意味なら、わかってない振り。


帰る場所がないはなし

どこにも行けなくなった。
遂に理由がなくなった。
東京にきたのは彼についてきたからで、
今の仕事に変えたのも彼との生活のためで
そうじゃないならなんにも必要ない。

息がずっと苦しいままだ。
知ってる街を追われるように出て、
知らない街にやってきたけれど、
新居のカーテンもベッドも必要だとは思えない。
どうして新しい家にひとりでいるんだろう。
住みたくない家の家財が必要な理由がわからない。

あの人はいま
あの人はいま

そんなことばかり考えてる。
不衛生なあの子と一緒にいるかもしれないのにね

すっかり変わっていってるはなし

私のすきだった人なら今はもう
どんどん冷たくて酷い人になってる。

彼に拓けたらしい未来とやらには
私は甚だ疑問だけれども
あの子供みたいな笑顔ならそっちのそう、
未来のほうを見つめてしまって、
心配なんてもう、してくれないのだ。



お互い確かめ合わずにきてしまって
ずっと一緒だったふたりは
終わるタイミングがわからなかったらしい。
 乗れない終わり方をさせられてしまうのだ。

惰性と未練と欲張りとが発露して
だらだら終われないでいるジャムバンド
かなしい。

お金と関係性のはなし

そりゃ慰謝料なんて生涯誰にも要求しない人生がいい。


慰謝料を請求しうるということは
自分と相手だけじゃなく公共圏のありとあらゆる角度から見物しても

「ああ、あの人、不当に傷付けられたな」

っていう認識が発生するわけでしょう?

それは恥ずかしいことでもなんでもないけれど、
男女関係の場合はちょっと違って
離婚でも婚約破棄でも浮気でも

「そんな相手を選んだあなたの見る目がない」

のようなのことを言ってくるひとが
一定数存在しているのを私は知ってる。

見る目って。

何年も経てば人は変わってしまうから
見る目があるとかないとか正直よくわからない。
今は関係性がまるで被害者と加害者のようになっているけど
少なくともあの時の相手と自分をふたりが一緒に信じてたんだから
それは否定しないであげてよ、と思ってしまう。
お金を請求する側、される側になると、
そうも言ってはいられないんだろうけど。
でもお金で心の穴なんて何にも埋められないじゃん。
だからなるべくお互い変わらずにいたいというのは
難しいものなんだろうか。
難しいものなんだろうね。


あの時の夢なら
何度だって見たいじゃない。



音と記憶のはなし

何年も一緒に暮らすと
もともと似通っていた音楽の趣味が更に似てきてしまって、
どっちがどっちの趣味だったかわからなくなる。

音にまつわる記憶が混在してきて、
あの時のフェスで一緒に見てふたりで好きになって、
帰りに余韻と寂しさの中で一緒にスマホ開いてCD買ったアーティストなんて
あれはどっち始まりになるのか。
 
そんな状態で別れることになったら
何を聴いても思い出すことが多すぎてiTunes触れなくなる。
音の悪いライブハウスやギターを爪弾く指先だけじゃなくて、
洗い物をした時に流れていたインストや
風呂場から聴こえた鼻歌なんかもそう。

そんなのをひとりになってからどうやって消化すればいいのか。
相手はどうやって消化しているのか。

何も考えずに昔みたいに
音そのままを楽しめるようになる日々は
今のところまだ想像つかない。


別れの体感時間のはなし

何年も一緒に過ごしてきたひとと離れることになった時のはなし。
恋愛がおわって結婚がちらつき始めたころ、突然お別れすることになったはなし。

きっも相手にとってはずいぶん考えてのことで、
別れを切り出すまでに長い長い時間をかけて悩みつづけてだした結論だろう。

けれどそれをどれだけ説明されたって
互いに横たわる空気になんのサインも混じることなく
ただ惰性や、あきらめや、ぬるい優しさだけが居心地を作り出していた場合、
結論は自分にとって本当に唐突に感じられたりする。
互いの体感時間がぜんぜん違うのだ。
そうして縋るものと縋られるものに、関係が変わってしまう。
いちばん近かったはずのひととのあいだに発生した立場のちがいが
あっという間に日々を思い出に変えてしまうのだろう。

そして、いやだ離れたくないもっとわかりあえるはずだって
泣いて喚いてごねたって
それは話し合いにはならず、
あくまで説得の域を出ないらしい。
別れというのは大抵一方的なのだろう。

それをすぐには割り切れないで、
別れを告げられた側の多くのひとのたうちまわることになる。
後になってきっと苦しんだり、ばかだったなぁって思ったりするんだろうし、
そりゃ頼れるひとのはなしは今すぐ聞いたほうがいいのだろうけど、
好きな気持ちが片付くまではそうもいかないし。

誰かのはなしは自分の心をその時軽くしても
自分だけのほんとうを揺らがせてはくれるはことは少ないのだ。
(揺らがせてくれるようなひとがいたなら、それはとても幸運だって私は思う)

別れを告げられ、
最後の最後にひどく傷つけられ、
思い出も汚されて尚、それでも顔を見たいひとがいる。
不毛だ。
こちらからみても一方的で、不毛だ。

けれど不毛が愛だって信じてるうちは
かつてのあのひと目掛けて静かに狂っていけるうちは
その愛らしきものを終わらせることは難しいんだろう。

思い出の中に遊びにいって
帰ってこれなくなるうちに戻らなきゃ。
そういう自覚はある。
けれどどこまでいってもこんななんだろう。

別れを告げられたあとってのは、
少なくとも私に考えられるのは
せいぜいそんなことだけだ。

凄惨で、よくあるはなしだと思う。